社会派推理小説の原点ともいわれる松本清張(1909~92年)の「点と線」。時刻表を駆使した精巧なトリックとアリバイ崩しの妙で今も読む者を引きつけてやまない作品だ。しかし、謎解きの醍醐味(だいごみ)につながる香椎(福岡市東区)の遺体発見現場付近の描写に、専門家や地元の人たちも気付かなかった「謎」がある。答えを求めて香椎の町を歩いた。
「点と線」は1957年2月から約1年間、雑誌「旅」に連載された。香椎の海岸で、中央省庁の汚職の鍵を握る課長補佐と料理屋の女性従業員の服毒遺体が見つかる。情死とみられたが、一人の刑事が最寄りの国鉄香椎駅や西鉄香椎駅付近を何度も歩くうち「11分」という両駅での目撃の時間差に疑問を抱く。心中を装って殺されたのではないか――。
ここで問題となるのは両駅間の距離だ。清張は「500メートルぐらい」で、刑事がゆっくり歩いても「7分ぐらい」と書いた。有栖川有栖さんは解説で「二つの地点を十一分かけて歩いたとしたら、時間がかかりすぎている。不可解。これこそが『点と線』の最大にして最も魅力的な謎だったのだ」とこの場面を絶賛している。
ところが、である。JR香椎駅前のロータリーを出ると、西鉄香椎はもう目と鼻の先。JR九州と西鉄によると、西鉄駅の改札は高架化に伴い若干位置が変わったもののJRは当時のままで、両駅の改札間は直線で約200メートルしかない。歩くと約250メートル余り。JRから約3分で西鉄に着いた。
西鉄の駅前にゆかりの桜(通称・清張桜)を移植するなど顕彰に力を入れている香椎校区自治協議会長の田代恒久さん(71)に尋ねても「高架化で動いたのはせいぜい数十メートル。言われてみればそんなに距離はないですね」と首をかしげるばかりだった。
「地図で読む松本清張」(2020年)の刊行を前に現地を歩いた帝国書院編集者の大平原寛さんも「埋め立てなどで香椎海岸の様子が当時と大きく異なっており、駅から現場への道のりに気を取られたためか、2駅間の距離の違いについては気付かなかった」と話す。
なぜ「リアルとのシンクロ」が持ち味の清張作品に食い違いが生じたのか。
北九州市立松本清張記念館によると、小倉(同市)の印刷所に勤めていた清張は24歳だった33年ごろ、博多の印刷所で半年ほど修業したことがあり、休日には香椎の海岸へ遊びに行ったことが分かっている。中川里志学芸担当主任によると、清張は万葉集の専門書を読む(蔵書も2冊残っている)など造詣が深く、「点と線」の中にも大伴旅人が詠んだ「香椎潟」の和歌が見えるなど、香椎への思い入れもあったようだ。
一方で、後に「舞台再訪《点と線》」で香椎の海岸について、わざわざ「前に行ったことのある」と書き残しており、取材に際しては訪れていないことがうかがえる。こうしたことから、中川さんは「執筆当時、清張は既に東京に住んでいた。並行して『眼の壁』も連載するなど忙しく、地図は見たかもしれないが、福岡時代の記憶に基づいて書いた結果ではないか」と見る。
実は、清張作品については、勘違いや思い込みらしき描写がいくつか指摘されている。たとえば「眼の壁」では、岐阜県瑞浪市の川について「透き通っていて、子どもが遊んでいた」と描写したが、後に「水は真白く濁っていた。陶土のためだ」と修正された。周辺は美濃焼の産地で原料の陶土の採掘場がいくつもあるため「川は濁りがち」と外部から指摘があったとされている。
また、大平原さんは「点と線」の数年後に書かれた「時間の習俗」のトリックについて「羽田空港から殺人現場の相模湖へ行くのに国鉄南武線を使っているが、都心経由で中央線のほうが早いのでは」と提起する。
ただ、中川さんは「小説のリアリティーは現実そのものではない。当然、描写が逐一実際と一致する必要はない」と話し、大平原さんも「描写の食い違いというものは、後で見ればいろいろ出てくるもの」と笑う。8月4日で没後30年。いまだ話題は尽きない。【山本直】
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